本屋は燃えているか

ブックストアの定点観測

番組制作者の裏テキスト

放送局の書店には、映像関連本のコーナーがあります。「ドキュメンタリー・ストーリーテリング」(画面右)のような正当派の映像制作ガイドブックが並びますが、たまに「あれっ」という本が並ぶことがあります。

 

ドキュメンタリーや情報系番組の作り手にとってタブーであり、手を触れてはいけないのが「ヤラセ」という手段です。事実を視聴者に伝え、判断は視聴者にゆだねるというのがまっとうな制作者の姿勢ですので、おおもとである「事実」を伝えない、あるいは歪曲するという手法には背徳感を覚えるのです。

その背徳感に訴えかけるのが「フェイクドキュメンタリーの教科書: リアリティのある“嘘"を描く映画表現 その歴史と撮影テクニック」白石晃士 著()です。立ち入り禁止地帯にこっそり足を踏み入れるような感じですね。 

f:id:tanazashi:20160324181401j:plain

 「なんちゃって」本のような扇情的な表紙とはうらはらに、中身は確信犯的であり実用的な情報がつまっています。見えたものが事実であると思い込む視聴者の心理を利用した演出手法として読むと、目から鱗が落ちる感じになります。 

そもそも「クローバーフィールド」とか「REC」を見て「やらせじゃないか」って突っ込む人はいません。みんなちゃんと劇映画だと認識している。コワすぎる映像の場合は日本は心霊ドキュメンタリーというジャンルがあって、レンタル店でそれらと同じコーナーに置かれていますから、心霊ドキュメンタリーだと思って借りる人が多いんですよね。でもそれを手に取った人が「なんじゃコリャ」と思いつつもなんか気になって続きを見てしまい、そのうちはまわってしまう。そうして「予期せぬものを見せられる驚き」という映像作品のおもしろさがある。

 

f:id:tanazashi:20160324181416j:plain

筆者は、フェイクの神髄を「モンド」と表現しています。モンドとは、 「珍奇な」「別世界の」「ちょっと変わった視点の」という意味のドイツ語です。映画「世界残酷物語」(原題 Mondo cane イタリア語で犬の世界)から始まったもので、似たような映画をモンド映画、それらに使われた曲のような(内容に不釣り合いに美しい)音楽をモンド音楽と呼ぶようになったものです。

現在のように合成技術や、ヤラセという手法が知られていなかった時代(60年代頃ですが)世界の野蛮で残酷な奇習・風俗を描いた「世界残酷物語」を見に行って、「こんな映像を撮っていいのか」と身震いした記憶があります。

あとでわかるのですが、捏造された題材が多数仕込まれており、現実と空想が混在した実にいかがわしい作品でした。「スタップ細胞事件」を連想しますね。でも当時はだれも「この映画を観客をだます映画であり、けしからん」と糾弾しませんでした。 

いっぽう、映像はレニ・リーフェンシュタールによる「意志の勝利」(1935年)やオリンピックでのナチス政権の成功に対する国家威信を向上を目的とした「民族の祭典」と「美の祭典」(1938年)のように「プロパガンダ」として利用される危険性も持ち合わせています。

ああ、「あれはフェイクね」「まがい物ね」と受け手に疑いの気持ちを抱かせながら、その中で安心して楽しんでもらえる映像作りが着地点なのかもしれません。 

f:id:tanazashi:20160324181639j:plain

交通事故を撮影したシーン。これも合成でつくることが出来ます。カメラマンが事故現場に居合わせることは冷静に考えるとかなり低い確率です。しかし最近は監視カメラが普及することで偶然性が必然性に変わりつつあります。観客の側の判断基準も時代とともに変化し続けています。