最前線を取材するカメラマンの世界を伝えるのがこの一冊。
「戦場中毒 撮りに行かずにいられない」横田徹*1 著(文藝春秋)
とにかく行きたい!勇んで飛び込んだ初めての戦場で見たのは、バラバラになった兵士の死体だった―アフガンではロケット弾で負傷し、イスラム国(ISIS)取材では危機一髪の脱出。それでもやめられない戦地取材の魔力にはまった日本人カメラマンの壮絶体験記。
最前線の取材は危険が伴うことから、大手報道機関は現地派遣には慎重な姿勢をとります。海外取材を例に取れば、海外出張計画は個別に事前審査されます。外務省の渡航安全情報は重要な審査基準になります。
戦火に限らずたとえば疫病の流行地帯の取材も含めてです。ひとたび事故が発生すれば、取材者にとどまらずその後の危機管理に大きな影響を及ぼすからです。
自社の要員の派遣が難しい地域で情報を収集するには協力者の力を仰ぎます。現地メディアや在留邦人のネットワークなど信頼できる協力が必要になります。さらに突っ込んだ情報が必要な場合に登場するのが現地の事情に明るいジャーナリストたちです。
かつて番組でおつきあいさせていただいた「アジアプレス*2」など、大手マスコミとは違った方法で取材活動を続ける人や団体は増えています。そして、地域やテーマを絞って取材活動をつづける組織や個人の多面的な活動が、報道の中立性を支えているように思います。
横田 西洋の民主主義とか、人間が作った法律で国を治めるのではなく、イスラム法で国を統治するのが彼らの目的です。原因は、西洋人が石油を手に入れるために国境線を引き、彼らの土地を分断したことにあるのです。だからそれを元に戻したい。イギリス、フランスが勝手に国境を引いて、アメリカは戦争を起こして莫大な利益を生み出している。オイルマネーは王族だけが得て、彼らは外国で別荘を建て、豪遊して好き放題やっている。
彼らが言うには、資源は王族など一部が独占するべきものではなく、平等に分配するべきもの。資源はそこに住む人のものなんだという主張です。それは最初から宣言しており、意外とまともな主張です。
実際に現場を歩くと感じるのが、報道されている内容と自分が実際に見た現場の空気の落差です。大きく騒がれている事象が、実はあっけないほど日常に近い現場であったり、またその逆。震災に見舞われた現地のように、悲惨な事実が日常のような世界では、報道バリューという判断の中に個々の悲惨な事実が埋もれてしまったりします。
いいか、悪いかではなく、取材者も受け手も始めに感じた落差を忘れ、その落差に「慣れて」しまいます。 落差の感覚を持ち続けられるかどうかが、本書タイトル「戦場中毒」の境目なのではないかと思います。
2003年にイラクから帰国後は愛知万博を撮るなど、経済的にも安定したが、何かが違う。そしてフランス外人部隊の取材中に機材一式を盗まれて困窮した横田氏は2007年、再びアフガン入り。その久々の感覚をこう書いている。〈最高に幸せだった〉と。
「本当の悪党なんて少ないと思いますけどね。僕がタリバンと米軍に従軍取材したのも両方の言い分を聞かないとフェアじゃないからで、向こうも国籍や立場より、『お前いいヤツだな。乗れよ』とかね。日本人ってことで珍しがられはしても、損したことは一度もないし、その状況が山の天気みたいに一瞬で変わるから、侮れないんです」
死ななかったのはホント、運だけですよ。沢田教一もキャパも一ノ瀬泰造も早死にですし、生き残った人が運のいい人なんだと思う。
写真は私たちを取り巻く世界の非情さを雄弁に語りかけてきます。しかし、ファインダーを覗く側にいる取材者の姿は見えません。
怒っているのでしょうか、泣いているのでしょうか、それとも笑っているのでしょうか。私のできることは、写真には写らない取材者に「ご無事に」と祈るのみです。